INICIAR SESIÓN薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。
まだ誰の手にも渡っていない。 救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。 だから、被害は出ていない。 ただし、問題は出た。 王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。 差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。 内容は短い。 ――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。 ――配布前に一時停止。 ――薬草品質確認部門へ照会済み。 ――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。 ――本日午前、正式確認希望。 エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。 止まった。 配る前に。 けれど、その次にすぐ別の重さが来た。春の招待状は、いつもなら香りから決まった。 薄い花の香を移した上質な紙。 淡い金で縁取られた封筒。 公爵家の紋章を押した封蝋。 季節の挨拶を飾る、少し大げさな言い回し。 それがヴァレンシュタイン公爵家の春だった。 春の茶会は、公爵家がまだ公爵家であることを王都へ示す場でもあった。 庭の花が咲いた。 新しい菓子が届いた。 娘たちのドレスが整った。 夫人たちが集まり、笑い、噂を交わし、次の縁談や寄付や派閥の空気を探る。 リリアナにとっても、春の茶会は嫌いなものではなかった。 むしろ、好きだった。 自分のために仕立てられたドレスを着て、母に髪を整えてもらい、客人たちに「まあ、リリアナ様、今年もお可愛らしい」と言われる。 その時間は、確かに甘かった。 けれど今年、机の上に置かれている招待状案は、以前のものとはまるで違っていた。 紙は上質だが、飾りはない。 封筒も無地。 香りも移していない。 金の縁取りもない。 そして、招待状の表題にはこうある。 ――ヴァレンシュタイン公爵家 春の小さな挨拶会のご案内。「小さな、って書くんだ……」 リリアナは、机の上の試し刷りを見つめながら呟いた。 北翼の小会議室には、エレノア、リリアナ、ヘルマン監督官、マルタ、財務書記、そして夫人会改革担当としてデリア夫人とミリアム夫人がいた。 本来、公爵家の招待状に夫人会の二人が関わる必要はない。 だが今回は、春の大規模茶会を小規模挨拶会へ変える初回である。 社交界への伝え方を誤れば、「ヴァレンシュタイン家は落ちた」「王家監督下でみすぼらしくなった」「使用人宿舎の暖房費な
使用人宿舎の応急修繕が始まった翌々日、ヴァレンシュタイン公爵家の帳簿に、一本の太い線が引かれた。 暖房費。 薪代、煙道修繕費、窓枠補修費、風除け板、追加毛布、窓布の新調、古毛布の再利用加工費、温度記録用の小さな計測具。 ひとつひとつは、王都の大貴族の支出として見れば、驚くほど大きな額ではない。 だが、それらをまとめて「冬季宿舎安全費」として正式な費目にした時、初めて見えるものがあった。 これまで、その費目は存在していなかった。 薪代は家政費の隅にあった。 修繕費は建物維持費の下にあった。 毛布は備品費に混ざっていた。 使用人宿舎の寒さは、どこか一つの欄にまとまっていなかった。 だから、見えにくかった。 どれも小さな不足として処理され、次の季節へ流され、また冬が来る。 ヘルマン監督官は、机の上に新しい予算表を置いた。「本日は、使用人宿舎冬季安全費の恒常化と、その財源としての王都社交費削減を協議します」 ヴァレンシュタイン公爵家の南側会議室。 かつては茶会前の打ち合わせに使われた部屋である。 今は、帳簿、見積書、修繕計画、過去三年分の社交費一覧が並んでいた。 出席者は、ヘルマン監督官、エレノア、リリアナ、家令代理、財務書記、ハンナ、そして別室から監督官立会いで意見書を提出したセレスティア。 グレゴール公爵本人は出席しない。 当主権限停止中であり、直接の発言は監督官経由に限られている。 ただし、父の所見は机の端に置かれていた。 ――家の顔を守り、家の足元を見なかった。 その一文が、今日の会議の中心にあった。 リリアナは、社交費一覧を見つめていた。 顔色はよくない。 けれど、逃
使用人宿舎の暖房修繕は、三日後に始まった。 決定から着工までが早かったのは、王家監督官ヘルマンが「冬は待ちません」と短く言い切ったからだった。 ヴァレンシュタイン公爵家の王都屋敷は、表から見れば立派だった。 白い石壁。 整えられた庭木。 客を迎える玄関広間には、磨かれた燭台と季節の花。 応接室には厚い絨毯が敷かれ、暖炉の火はいつも美しく整えられていた。 けれど、屋敷の裏へ回ると空気は変わる。 調理場の裏口。 薪置き場。 洗濯場。 馬車小屋へ続く石畳。 そして、そのさらに奥に、使用人たちの宿舎があった。 エレノアは、そこへ足を運んだことがほとんどなかった。 幼い頃、迷い込んだことはある。 侍女にすぐ連れ戻された。 「お嬢様のいらっしゃる場所ではありません」と。 その言葉を、当時のエレノアは深く考えなかった。 自分には自分のいる場所があり、使用人には使用人のいる場所がある。 そういうものだと思っていた。 だが今、その「いらっしゃる場所ではない」と言われてきた場所こそ、父と母が見なかった空白の一つだった。 宿舎は、倒れかけているわけではない。 壁も屋根も、外から見れば保たれている。 だが、近づけばすぐ分かった。 窓枠の隙間。 廊下の床板の軋み。 暖炉の煙道のひび。 寝室へ続く扉の下から入る風。 そして何より、空気が冷たい。 屋敷の表側にある客間の冷たさとは違う。 人が我慢することに慣れた冷たさだった。 エレノアの隣で、リリアナが息を呑んだ。「ここ……同じ屋敷の中なの?」 その声は小さかった
セレスティア・ヴァレンシュタインは、帳簿が嫌いだった。 嫌い、という言葉すら少し違うかもしれない。 怖かったのだ。 数字は、言い訳を聞いてくれない。 この支出は娘のためだった。 この髪飾りは誕生日の贈り物だった。 このドレスは王太子妃候補として必要だった。 この茶会は公爵家の体面のためだった。 この謝礼は夫人会との関係を保つためだった。 そうした言葉を、数字はひとまず横へ置く。 金貨何枚。 銀貨何枚。 支払い元。 承認者。 名目。 不足した費目。 延期された修繕。 そこに、涙は書かれない。 母の愛情も、娘の笑顔も、社交界の視線も、王太子妃候補としての焦りも、帳簿の数字には直接は載らない。 だから、セレスティアは帳簿を見ないできた。 見なかったのではない。 自分では、そう思っていた。 家政は家令が整えるもの。 当主が最終承認するもの。 公爵夫人は、家の顔と娘の装いを整えるもの。 細かな数字は専門の者が見るもの。 そう言い聞かせていた。 けれど王家監督下に置かれた今、その言い訳はもう通じなかった。 監督官ヘルマンは、王都屋敷の南側応接室を臨時の確認室に変えていた。 かつては夫人たちを招いて茶を飲んだ部屋だ。 薄い香りの茶、季節の菓子、花瓶、柔らかな会話。 今、机の上にあるのは茶器ではなく、帳簿だった。 リリアナのドレス帳。 装飾品記録。 教育費名目支出表。 社交費再分類案。 使用人宿舎暖房修繕延期記録。 そして、リリアナ本人が付けた青、黄、赤、白
リリアナがドレス帳を開く日が来た。 それは、誰かに命じられたわけではなかった。 王家監督官ヘルマンから、公爵家の支出再分類資料は届いていた。 リリアナの社交費。 教育費。 装飾費。 茶会準備費。 王太子妃候補としての体裁維持費。 そして、セレスティア夫人が「必要」と判断した細かな支出。 それらの一覧を見るだけでも十分だった。 数字は冷たい。 銀貨何枚。 金貨何枚。 仕立て代。 宝飾修繕費。 髪飾り代。 舞踏靴代。 季節ごとの外套。 茶会用手袋。 王宮挨拶用の淡色ドレス。 夜会用の刺繍入りドレス。 数字は、言い訳をしない。 けれど、数字だけでは分からないものもある。 そのドレスを着た日の気持ち。 母に褒められた記憶。 鏡の前で少しだけ自分を好きになれた瞬間。 エレノアが忙しそうに書類を読んでいる横で、自分だけが新しいリボンを選んでいた後ろめたさ。 全部が混ざっている。 だからリリアナは、自分から言った。「ドレス帳を見たいです」 北翼の執務室でそう言った時、エレノアはすぐには頷かなかった。 机の向こうで、姉はしばらくリリアナを見ていた。「今、見る必要がある?」「あると思う」「つらくなるかもしれないわ」「たぶん、なる」「全部を自分の罪にしないと約束できる?」 リリアナは、すぐには答えられなかった。 それを約束するのは、少し難しかった。 だって、自分のために使われたお金だ。 自分が綺麗だと言われたくて
ヴァレンシュタイン公爵家の監督報告は、いつも重い。 紙の量が多いからではない。 もちろん、多い。 領地税、家政費、使用人給金、宝物庫、社交費、分家支援、王都屋敷の修繕、領地の橋、冬前の穀物管理、前当主時代から続く寄付名簿。 公爵家というものは、血筋だけで立っているわけではない。 帳簿の上にも立っている。 むしろ、帳簿を見れば、その家が何を大切にし、何を見ないふりをしてきたかが分かる。 だから、重い。 父の家を見ることは、父の言葉を聞くよりも重い時がある。 北翼の執務室で、エレノアは王家監督官ヘルマンから届いた中間報告を開いた。 表紙には、簡潔にこう記されている。 ――ヴァレンシュタイン公爵家監督報告。 ――当主権限停止後、第一期整理。 ――提出者、王家監督官ヘルマン・グラーツ。 隣には、リリアナが座っていた。 今日は見学ではない。 本人関係者として、一部説明を受ける日だった。 ただし、すべてを見せるわけではない。 家の財産や使用人の個人情報には、閲覧範囲がある。 つい先日作ったばかりの「必要以上に知らないことも保護の一部」という考え方は、公爵家監督にも適用される。 リリアナには、自分に関係する教育費、社交費、王太子妃候補工作に関わる支出、そして今後の生活費に関する部分のみが共有される。 それでも十分に重い。「緊張している?」 エレノアが尋ねると、リリアナは素直に頷いた。「しています」「見たくないなら、今日はやめてもいいわ」「見ます」 答えは早かった。 けれど、手は少し震えている。「知らないままに戻り